いま振り返って驚いているのだが、私は30歳の時から48年間『白鳥の湖』に関わり、五度も創り直している。
最初に改作したのは1959年。松山樹子先生たちと知恵を絞って、村娘オデットが王子と身分違いの恋をしたために、その制裁として悪魔に白鳥にされてしまうという筋立てを考えだし、次ぎの二つの『白鳥の湖』を参考にして振付をした。その一つは、第1、3幕に初めて道化を登場させた、A・ゴルスキー版(1911年初演・ボリショイ劇場)。もう一つはV・ブルメイステル版(1953年初演・モスクワ音楽劇場)で、特にブルメイステル版はこのバレエの根幹を揺さぶるような新演出で、その頃センセーションを巻き起こした作品である。
私は二度目の改作をする折に、「完成品」と謳われている第2幕の白鳥の群舞に手を入れた。この群舞は変哲もない振りである。一列になった白鳥たちが舞台の上手奥にセットされている古城の廃墟(または、崖岩)──ロートバルト・コーナー──の陰から、単純なステップを繰り返しながら出てくる。
問題は、ここのところだ。なぜ、白鳥たちは軍隊の分列行進みたいに一列に並んで登場しなければならないのか──私は長い間この群舞構成が気に入らなかった。この白鳥たちは、悪魔ロートバルトの魔法で白鳥に変えられた娘たちで、夜の短い間だけ人間の姿にもどり、湖畔にあがって自由に遊ぶことを許されている。それならば、何も一ヵ所から上陸しなくても、湖の何処の岸辺からあがって来てもいいだろう。単純にそう考えて、私は舞台のあちこちからぱらぱらと白鳥たちを登場させた。
それから十年あまりが過ぎて、その時、私はパリの地下鉄の駅にいた。パリの地下鉄は、乗車する通路と下車して表に出てゆく通路が完全に隔離されている。出口は出る一方、入り口は入る一方で、日本みたいに一つ所を出たり入ったりする出入口はない。まるで腕のいい牧夫に導かれる羊の群のように人びとが流れていく。
──そして、何故か判らないけれど、この光景がふーっと白鳥の列に重なってきたのである。地下鉄構内の分厚い壁。出口。一方にだけ進むスムーズな降車客──
悪魔の魔法に閉ざされている白鳥たち。ロートバルト・コーナーから吐き出されてくるあの列。あとで行ったロンドンもそうだったが、むこうの地下鉄の合理的な乗・降客の誘導は、恐らく、彼らヨーロッパ人が牧畜民であった頃の記憶によるものだろう。そしてその牧畜民族的発想が、『白鳥の湖』の第2幕に見事に形象されていたのである。
つまり、白鳥たちは閉じ込められた湖の柵内から、湖畔の限られた空地に放牧されるわけだ。これは例えば監獄の服役囚の運動時間のようでもある。悪魔は牧夫や看守がするように、見おろせる場所から監視の眼を光らす。出口は、その場所以外にあってはならない。
私は前に、白鳥たちは夜のひと時だけ娘の姿にもどり「湖畔にあがって自由に遊ぶことを許されている」と述べたが、その遊びは、あくまでも監視下におかれた自由のない遊びである。だから、目立たないように他の者と同じ動きをしようとする。そして、これが結果的に白鳥たちの見事な群舞になる。逆からいえば、群舞が綺麗であればあるほど、彼女たちの境遇の悲しさと、支配しているものの大きさがクローズ・アップされてくるのだが、私がやったように出だしから白鳥たちを勝手気ままに上陸させたんでは、このバレエのドラマは成立しなくなる。
見た眼には美しい古典バレエは、大げさにいえば、異民族の血をたっぷり吸った骨太い怪物である。古典バレエを上演する際は、それをそのまま鵜呑みにしないで、「なぜ、どうして、そうなのか」を疑ってみる必要がある。私の『白鳥の湖』も、どこか外国バレエ団のビデオをコピーすれば、それでことは済んだはずである。だけど、第2幕の群舞の登場や構成が腑に落ちなかったので、五度改作し、たまたまパリやロンドンの地下鉄の光景に接して、振付家レフ・イワノフの正統さが認知できたのである。イワノフの振付に帰着するまでに、私は十年も回り道をしたことになるけれども、それはこの作品を理解するための貴重な体験でもあった。
第4幕は私のオリジナルである。どこのバレエ団を観ても、第4幕の群舞構成と第2幕のそれとほとんど変わっていない──オデット、王子、悪魔が三つ巴になってドラマは進行しているのだから、当然群舞描写も変わるはずなのに、何故変わらないのか。これが不思議であった。私は指揮者の福田一雄さんにお願いして、まだ『白鳥の湖』に使われていない音楽を捜してもらい、この幕の全部を創りなおそうと考えた。──白鳥は一羽が移動すると、それに従って白鳥たちは列をつくって移動する。この習性を採り入れ、第2幕のシンメトリーの図形を排除して、斜めの線を強調しながら群舞を振付けた。第3幕の舞踏会で、悪魔の計略で娘オディールと結婚の誓いをする王子を見て、打ちひしがれて帰ってきたオデットに寄り添う白鳥の群。と、そこへ王子が駆けつけ、オデットに自分が犯した過失を心から詫びる。その王子の誠実な愛情に感じ入ったオデットと白鳥たちは、いままで悪魔に閉鎖されていた境遇を打破しようとそれぞれが立ちあがって悪魔と対峙し、自らの力で悪魔を滅ぼし人間に甦る。
これが、私の『白鳥の湖』である。
石田版の魅力のひとつは、白鳥たちの群舞です。第2幕ではシンメトリー、第4幕では龍安寺の石庭に触発されたというアシンメトリーなフォーメーションを多用して、とても美しい場面です。それから、ラストシーン。
チャイコフスキーの楽譜には、最後二人は昇天して結ばれるとありますが、石田版では二人が幸せを勝ち取ります。昔、ソビエトでは革命が起こったときに、甘い夢のようなストーリーはだめだと指導が入り、民衆が力で勝ち取るという結末ができたそうです。が、石田先生はその「民衆が勝ち獲る」を「人間復活」と解釈しなおして、作品をまとめ上げました。ぼくは、その第4幕がとても好きです。
石田版は、自身のロマンを反映して、ストーリーがしっかりしていますから、ダンサーのテクニックやスタイルが洗練さを増していく中でも、ドラマはうすまらない、平坦にならないようにしたいと思っています。
石田種生のドラマトゥルギーを残すため、物語の背景や作品にまつわる本をいろいろ読んだ上で、ぼくなりの解釈で物語のプロットを作っています。
とある城の姫・オデットが、城の乗っ取りを企てた家老=悪魔から逃げたけれど、女官たちもろともつかまって白鳥にされてしまう。そう考えると、オデットだけが冠をつけていることも、第4幕で白鳥たちが必死でオデットをかばうことも自然とクリアになるんです。自分の中で物語の軸を作っておいた方が、指導するときにブレなくなります。
石田先生は、いつも「なぜ、と思わなくちゃだめだ」と言っていました。演じる人も指導する人も「なぜこうなるのか」を一生懸命調べたり、考えたりすると、いろいろな答えが出てきます。その中で、自分が答えを選択すればいいんです。「なぜ」を考え続け、問い続けること。それぞれの役の立場で、一人一人が考えると、舞台に厚みが出てくる。こういうことを伝えていきたいと思います。
演出(再演)
金井 利久 Toshihisa Kanai
日本大学芸術学部演劇科で福田一平に師事。横山はるひバレエ団、松山バレエ団を経て、1968年東京シティ・バレエ団設立と同時に第一ソリストとして参加。『ジゼル』ヒラリオン、『せむしの小馬』王様、『シンデレラ』継母、妖精、『ヘンゼルとグレーテル』魔女、『コッペリア』コッペリウス、『シェイクスピアの女たち』マクベスなど、個性的な役柄を演じ好評を得る。また、自身の振付作品「くるみ割り人形」「白鳥の湖」「おもちゃ箱」「Les pierrots」「ロマンス」「ジゼル」等の演出においては、豊富な経験を基盤とした演技理論と、登場人物の心情に添う演技指導で、後進の教育に成果を上げている。現在は、バレエマスター、振付家、付属バレエ学校顧問等多角的な立場からバレエ団を支えている。東京シティ・バレエ団監督。